「権力者と庶民の利害が反転して、権力者が豊かになればなるほど
庶民は貧しくなる状態」というのを、東洋人は昔から避けようとしてきた。
権力者の繁栄が真に民の繁栄と共にあることを常に念頭に置こうとしてきたが、
中国春秋戦国時代の最終勝利者である秦始皇帝が初めてそのしきたりを破り、
民を単なる畜群と見なして、苛烈な暴政を臆面もなく敷くことで
自分たちが部落的な繁栄を謳歌することを、完全に開き直った。
東洋社会のサイコパスが最高潮に達したのもこの時で、権力者である以上は
庶民を人として扱いもしない、権力犯罪正当化型のサイコパスの魔性に
囚われたせいで、精神を決定的に荒廃させた人間が始皇帝の周囲に続出した。
そのほとんどは秦帝国崩壊後、項羽軍に虐殺されてその人数を大幅に減らしたが、
その残党が日本にまで逃れて来て、すでにそれなりの国家体制を整えつつあった
古代の大和朝廷に取り入り始めた。土木技術や技芸を駆使することにかけて秀でた者も
多かったために、始めは朝廷も厚遇したが、だんだん秦代に罹患したサイコパスを
原動力とした専横が深刻化し始めたために(聖徳太子もその犠牲となった)、秦人の力を
借りて権力を肥大化させていた蘇我氏宗家を滅ぼした乙巳の変や、その後の大化の改新
などを通じて多くの秦人がその立場を追われ、方々に逃げ去って部落を形成し始めた。
朝廷が諸国に派遣する国司や郡司の威勢が強い所では、部落はちゃんと村八分扱いを受け、
民を害するような悪行にも及ばなかったが、威勢の弱い所では反比例的に部落の勢いが強まり、
土佐国に至っては、平安末期から部落である長宗我部が当地の支配者をも気取る状態にあった。
関が原の戦いで長宗我部が敗軍となり、土佐藩の領地は没収となって山内氏が転封されて来たが、
長宗我部は太閤検地で土佐の石高を大幅に偽って低く報告したため、山内も不当に小規模な
権勢で土佐藩を治めさせられることとなったために、長宗我部勢の掃討を果たしきれず、
土佐の山間に長宗我部の残党が巣食ったままの状態を、幕末まで呈し続けたのだった。
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