はしけはひどく揺れた。踊子はやはり唇をきっと閉じたまま一方を見つめていた。私が縄
梯子に捉まろうとして振り返った時、さよならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺ
んただうなづいて見せた。はしけが帰って行った。栄吉はさっき私がやったばかりの鳥打帽
をしきりに振っていた。ずっと遠ざかってから踊子が白いものを振り始めた。
汽船が下田の海を出て伊豆半島の南端がうしろに消えて行くまで、私は欄干に凭れて沖の
大島を一心に眺めていた。踊子に別れたのは遠い昔であるような気持だった。婆さんはどう
したかと船室を覗いてみると、もう人々が車座に取り囲んで、いろいろと慰めているらしか
った。私は安心して、その隣りの船室にはいった。相模灘は波が高かった。坐っていると、
時々左右に倒れた。船員が小さい金だらいを配って廻った。私はカバンを枕にして横たわっ
た。頭が空っぽで時間というものを感じなかった。涙がぽろぽろカバンに流れた。頬が冷た
いのでカバンを裏返しにした程だった。私の横に少年が寝ていた。河津の工場主の息子で入
学準備に東京へ行くのだったから、一高の制帽をかぶっている私に好意を感じたらしかった。
少し話してから彼は言った。
「何か御不幸でもおありになったのですか」
「いいえ、今人に別れて来たんです」
私は非常に素直に言った。泣いているのを見られても平気だった。私は何も考えていなか
った。ただ清々しい満足の中に静かに眠っているようだった。
川端康成「伊豆の踊子」より
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