不条理、実存系の小説は、言いたいことはズバリと論文か哲学書に
でも書いてくれ、とか思ってしまう。カミュとかサルトルは特に。
若い頃、先に小説の方を読んだときは「へぇ」としか思わなかったけど、
後に哲学・現代思想にはまって、その延長でシーシュポスの神話やら
反抗的人間やら存在と無を読んだら、これは凄いと大いに感銘を受け、
あぁ、あの小説はこういうことを描きたかったのか、とやっとわかった。
背景知識無しで、今の感覚で実存小説をそのまま読むと、不思議な話、
狂ってる人の話、で終わってしまう。それじゃあエンタメ的な単純な
面白い、面白くないだけの話になってしまう。まぁそれも大事な側面では
あるとは思うけれど…逆にシーシュポスは読み物としても最高に面白かった。
頭でっかちなだけの哲学者にあれは書けないだろう。
既存の価値観が崩壊した「ニヒル」な「戦後」という時代背景を実感できる
同時代の読者なら、まだそのまま読んでもいろいろ感じるものがあると
思うけど、もう戦後70年だからね。「ポストモダン」でさえ30年以上前だ。
でもまぁドストエフスキーや安部公房は今そのまま読んでも面白いか。
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